「〇〇が幸せになってから、自分が幸せになろう」としていた、愚かなお話。

私の親は。 私から見たら、あまり幸せそうには見えなかった。 だから、 私は、 親が幸せになるような生活を、親に送って欲しかった。 親が幸せになるように、がんばろうと、続けていた。 親がよく言っていた事がある。 「お前たち(私ときょうだいの事)が、もっとちゃんとすれば…。。。(親は幸せになれるのに)」 今、思えば、 何と、愚かな、 やりとりをしている親子であろう。 関係が、破綻して当たり前だ。 お互いに、 相手を操作しようと、 「幸せ」を条件にしいたのだ。 親は。 「子どもが幸せになったら」 自分がが幸せになれるのに、 と生きていた。 私は。 「親が幸せになったら」 自分が幸せになれるのに、 と思ってい生きていた。 案外、 こうした “条件” で、 縛り合っている、親子は、多いのかも知れない。 私は、幸いに(?)、 弁護士に依頼して、 親との(家族との)つながりに一線を引き、 現在は、自分の幸せだけを、第一に考える道へ来たが。 「自分の幸せを第一に考える」と言う事は、 当たり前の様で、 かなり難しい事なのかもしれない。 <無条件の愛> とは、どういう事か? ご存じだろうか。 私は、 エイブラハムの教え から、無条件の愛を学んだ。 周りがどんな状況であろうとも、 自分の思考で、 「明るくて」「良い気分」を、選択し続ける事 だと知った。 過去の歴史では、 理不尽な状況下に置かれ、 その間、 目にする現実(理不尽な状況)の方ではなくて、 自分の思考の世界を、選択し続けた人たちが居る。 それが <無条件の愛> である。 彼らが無事、生還して、 後に、体験談で伝える記録こそ、 <無条件の愛> の、実践方法なのだ。 それら事件で、 生み出された愛は、 とても過酷な <無条件の愛> ではあるが、 私たちが、 <無条件の愛> を、実践したい時、 とても参考になる。 自身の思考で、 愛を選択し続ける、 「明るくて、良い気分」を、選択し続ける、 やり方の、ヒントになる。 人をコントロールしようとせずに、 粛々と、 独り黙々と、 自分の幸せの為に、 思考で「明るくて、良い気分」を、選択し続ける事。 その実践を、 試行錯誤する事こそが…、 家族のトラブル、 機能不全家族、 精神疾患、 身体的病気、 更年期障害も、、、 解決策になるのではないか? と、思うのだった。